会長の挨拶

会長からご挨拶

 

沼野充義

 

2015年6月に推挙を受け、新たに会長を務めさせていただくことになりました。大変遅ればせながら(もはや2年の任期が半分以上過ぎてしまいましたが)、ご挨拶させていただきます。

自分がこのような会の「長」に相応しい学識と人徳を備えた人物であるか、いささか心もとないのですが、幸い、日本スラヴ学研究会は、会長を飾り物のように棚にあげて、実際の学会活動はもっと若くて頭も切れエネルギーに満ちた企画編集委員長と事務局長が中心になって動かしていくというよき伝統があり、老害の心配はあまりありません。

 

 ただ「老害」という言葉を出したついでに、少々、年齢相応に老人めいた昔話をこの機会にさせていただきましょう(おそらく若い会員はもうそんな昔のことなど何も知らないのではないかと思いますので)。本会はもともと、「日本西スラヴ学研究会」の名の下に1984年に発足しました。どうして「西スラヴ」かというと、もともとこの会は、チェコの専門家である千野栄一先生とポーランドの専門家である吉上昭三先生が中心になって、西スラヴ言語文化を研究するための学会として創設されたからです。ただし、名称は「西スラヴ」であっても、それまで圧倒的にロシア中心であった日本におけるスラヴ言語文化研究の空白を埋めるために、西スラヴ以外のスラヴ諸国の言語文化を研究する人たちの受け皿にもなるという暗黙の合意があり、実質的にはすべてのスラヴ語スラヴ文学に対して潜在的に開かれた場としてスタートしました(ただしロシア語ロシア文学の専門家のためには日本ロシア文学会という立派な学会が既にあるため、スラヴ研究者とはいってもロシア語しかやらないような人はこちらに入っていただく必要はないだろう、という認識も前提としてありました)。

自分で見てきたような調子で回顧していますが、じつは残念ながら、1984年の発足会議の場には私は居合わせていません。私が正式にこの会のメンバーとなったのは、4年間にわたるアメリカ留学を終えて帰国した1985年のことで(自分でいうのもなんですが、そのころの私はまだ31歳、気鋭の若手研究者でした)、吉上先生の依頼をうけて私はさっそく事務局の業務を石井哲士朗さんから引きつぎ、創刊号の編集作業にも携わることになりました。記念すべき創刊号(当時の名称はもちろん『西スラヴ学論集』でした)が世に出たのは1986年6月のことですから、昨年の6月、私が会長に就任したとき、ちょうど30周年だったわけです。創刊号に掲載された会員名簿を見ると分かりますが、わずか17名の会員によるささやかな出発でした。

 

その後の30年余りの間に様々なことがありました。ポーランド語だったら、”dużo wody upłynęło”(たくさんの水が流れ去った)と言うところでしょうか。創設メンバーの大部分にとって直接間接の師であった木村彰一先生は、創刊号を目にすることはなく、その刊行の数カ月前に鬼籍に入られ、吉上先生、千野先生もだいぶ前から木村先生と楽しく雲の上で語り合うようになっています。その代り、世代交代は着々と進み、会員数も徐々にですが、着実に増えて、いまでは80名を超えました。そして――これがかなり大きな変化だと私は考えていますが――「西スラヴ学研究会」という名称も実態にそぐわない狭いものと認識されるようになり、私からの名称変更の提案に基づき多少の議論を経て、2013年に「日本スラヴ学研究会」に変更されました。すでに馴染んでしまった「西スラ」という略称には確かに愛着はあったのですが、変更後の新しい略称は「日スラ」、わずか一文字違うだけで聞き分けにくいくらい発音も似ている、というものでしたから、名称変更にともないがちな痛みはほとんど感じられませんでした。さらに2015年には、若手のために「日本スラヴ学研究会奨励賞」が制定され、会として次世代の研究者の育成にも積極的に取り組む姿勢を示すようになりました。このような30年を超える私たちの会の歴史は、日本におけるスラヴ研究という、超マイナーながらも熱烈な研究意欲に燃える才能豊かな研究者たちに支えられてきたディシプリンの発展の歴史そのものです(創設から1987年までの会の歴史については、『西スラヴ学論集』第10号に掲載された記事「日本西スラヴ学研究会の歩み」に詳しく書いてありますので、ご参照ください)。

 

その一方で、この分野に限らず、日本における人文系の学問を取り巻く環境は決して甘いものではありません。折しも2015年6月には、文部科学科省が全国の国立大学に向けて送った「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知の中で、教員養成系とともに、人文社会系の大学組織は「廃止や社会的要請の高い分野への転換」をするよう、「積極的に取り組」みなさいという指示を出し、学界に衝撃を与えました。こういう発想からすれば、我々の携わっているスラヴ語スラヴ文化研究などは、「社会的要請が低い」無用の長物の最たるものでしょう。特に外国語について言えば、人文社会系の学問の世界もグローバルな事実上の共通語と見なされる英語一色に席巻されつつあるご時世ですから、スラヴ語なとどいう聞いたこともないマイナー言語など、何の役に立つのだ、と言われかねません。実際、大学や研究機関におけるこの分野での専任職の数は非常に限られており、就職の見通しは明るくなりそうにありません。これは当然、若手研究者の志気にも関わります。

とはいえ、人文系の研究とは「おかげさまで」ではなく、「にもかかわらず」をエネルギー源として、困難を乗り越えることによってこそ新たな価値を生み出すものです。冷戦の終焉とソ連崩壊の後、スラヴ研究者の中でも文化やイデオロギーに関わる研究をする人たちは、方向感覚を失い、一種のめまいに襲われることになりました。これまた研究者にとっては新たな困難だったと言えるでしょう。東西の二項対立的な(それゆえ分かりやすい)対立構造が崩れ、ユートピア/ディストピアとイデオロギーをめぐる大きな物語が瓦解して飛び散り、自分の研究対象が何なのか、その範囲を何と呼べばいいのかさえも分からなくなったからです。しかし、考えてみると、この地域の本来の特徴がいま一度露になっただけのことはなかったでしょうか? 平穏な均質的な空間の欠如、無限の微細な差異のなかでの中心の喪失、不断の果てしない越境、予定調和に至らないヘテログロッシアと多言語性――こういった要素こそは、グローバル化に対する挑戦であり、また人文系の学問への貴重な贈り物に他なりません。スラヴ言語文化研究に携わることは、人文系の主流の中で根強くいまだにヘゲモニーを持っている中心-周縁、メジャー言語―マイナー言語といった二項対立的な発想から自分自身を解放することもでもあります。

 

2015年8月には千葉市幕張で、第9回国際中欧・東欧研究協議会(ICCEES)世界大会が開催され、世界49カ国から1310名もの参加者を得て、酷暑の中にもかかわらず盛会のうちに終了しました。この世界大会の共催者の一つは日本ロシア・東欧研究連絡協議会(JCREES)であり、日本スラヴ学研究会もその構成学会の一つですから、私たちもまたICCEES世界大会の一翼を担ったことになります。実際、私たちの会からも多数の研究者が参加し、報告をしています。この世界大会の組織委員長を務めていた私としては、30数年前、わずか10数名で「西スラ」が発足したころから私たちはずいぶん遠い道のりを歩んできたものだなあ、という感慨を禁ずることができません。

しかし、もちろんここで立ち止まるわけにはいかないでしょう。私の「狂おしい魂はもはや体より先に自分のなすべき仕事を成し遂げた」ような状態ですが(ロシアの詩人バラティンスキー曰く ”Свой подвиг ты свершила прежде тела,/ Безумная душа!”――この謎めいた言葉が本当は何を意味するかは、言語学者ヴィノグラードフのコメンタリーを参照してください)、次に続く、さらにその次にも続く世代にとって道はまだこれからはるか先に伸びています。

 

老人に相応しく長々しい挨拶になりました。ここまで読んでくださった人がどのくらいいるか分かりませんが、最後に感謝の気持ちをこめて、私の旧友バグノポリスキが書いた「スラヴの真空」という素晴らしい詩から引用してこの文章を締めくくります。

 行こうぜ きみとおれとで

 行こうぜ 地図にない国へ

 意味なんかこれっぽっちもなく

 満点のキラ星よりも明るい魂が

 飛び交うスラヴの真空へ

 

(2016年8月25日記)


President's message