2015 年度受賞作・選評

 

受賞

亀田真澄 『国家建設のイコノグラフィー ソ連とユーゴの五カ年計画プロパガンダ』

成文社、2014年

 

 以下、同賞選考委員会の長與進委員長による選考過程、選考結果、所見を『スラヴ学論集』(第 19 号、2016 年、pp. 52-54)より転載する。

 

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【選考過程】

 2014 年 6 月の総会において設置が決定された日本スラヴ学研究会奨励賞(以下、奨励賞)について、「内規」に基づいて推薦が募られ、2015 年 1 月末日の締切までに一件の推薦があった。この著書について、奨励賞授賞にふさわしいかどうかを選考することになった。

 

 選考には、「内規」に規定されたように日本スラヴ学研究会会長、企画編集委員長、論集編集委員長、および企画編集委員会で指名された長與の4名があたった。委員長は長與が務めた。2015年3月20日に第一回選考委員会を開き、各委員が当該の著書についての所見を提出すること、以後の選考作業はメールによって行うことを申し合わせた。

 

【選考結果】

 選考委員全員は、推薦された亀田真澄氏の著書『国家建設のイコノグラフィー ソ連とユーゴの五カ年計画プロパガンダ』(成文社、2014 年 3 月 28 日刊行)について、同書が奨励賞にふさわしい業績であることを一致して確認した。以下は選考委員会としての所見である。

 

【所見】

 亀田真澄氏の著書『国家建設のイコノグラフィー―ソ連とユーゴの五カ年計画プロパガンダ―』は、1920-30 年代のソ連と、1940-50 年代のユーゴスラヴィアの「共産主義的」公式文化を、同時代のヨーロッパのモダニズム芸術運動などとの関係も視野に入れながら比較し、前者の特徴を「いま・ここ」を重視する「ライブ性」、後者のそれを、出来事とこれを見る人々の間に立つ媒介物が重要な役割を果たす「媒介性」と規定して、その対照的性格を明らかにしたものである。

スラヴ言語学以外のスラヴ文化研究においては、語学的な制約もあって、なかなか一国文化研究の枠を越えることは難しいが、亀田氏は複数のスラヴ諸語の能力を駆使して、ソ連とユーゴスラヴィア両国にまたがる文化研究を一書にまとめ、スラヴ比較文化研究の一つの可能性を示したという点で高く評価される。

 具体的には、両国の公式文化に共通する鉄道建設についてのドキュメンタリー映画、グラフ雑誌、社会主義建設のための「新しい人間像」の提示という3つの例を取り上げて、それぞれで取られた方法の特徴を詳細に分析している。

映画に関する第3章での議論を例にとれば、ユーゴスラヴィアの作品『青年鉄道シャマツ=サラエヴォ』は、テーマやモチーフは先行するソ連映画『トゥルクシブ』と同じものを取り上げる一方、ソ連作品が「視点の内部化」という手法を取ることによって鑑賞者を出来事の内部に導く「ライブ性」を重視した表現となるのに対し、ユーゴ作品は「視点の外部化」という方法により、出来事の「いま・ここ」が次第に外部に広がって、ついには鑑賞者の「いま・ここ」につながる、という鋭い指摘を行っている。

 3 つのテーマを適切に選び出し、それぞれについて多くの読者にとって未知の事実を提示したうえで、細部をゆるがせにしない綿密な考証を行い、ソ連とユーゴスラヴィアの政治的プロパガンダの違いを、共通の原理で説明できるとした着眼点は斬新である。ソ連の「共産主義的」公式文化の研究は日本でも既にかなり進んでいるが、ユーゴスラヴィアのそれの本格的研究は本書が恐らく初めてであり、その点でも先駆的な研究として高く評価することができる。

 

 一方で、本書の本文 154 ページという分量を考えたとき、スペース的にはなお十分な余裕があり、様々な観点からさらに議論を展開することができたのではないかと感じさせられる点もあった。たとえば次のような点である。

  1. ユーゴスラヴィアの第 1 次五カ年計画が遂行されたのは、同国が 1948 年 6 月にコミンフォルムから追放された時期に重なる。その事実は、ここで扱われた 3 つの事柄に具体的にどのように関わっているのだろうか。第2章でコミンフォルムからの追放と経済体制の変化について、そして新しいユーゴスラヴィアにふさわしい文化政策が文化人たちによって模索されたことが概観されている。しかしそのような新しい文化政策、ユーゴスラヴィア社会における政治的・社会的な変化と、取り上げられた 3 つの事柄との関係は、かならずしも十分には議論されていないように見える。
  2. 多民族的連邦国家ユーゴスラヴィアの国民的アイデンティティーの創出のために公式文化が利用され、そのために「元型」的な古い文化類型が援用され、それと類縁的なものが創り出されたという場合に、「想像の共同体」を創り出して「○○民族は永遠である」というイメージを国民の心の中に植え付けようとするナショナリズムとの関係も気になるところである。本書ではナショナリズム論はほとんど展開されていないが、「共産主義的」公式文化がナショナリズム的要素をどのように利用したのかという点も、今後の研究によって明らかにして欲しい。
  3. 本書が扱っているのはソ連とユーゴスラヴィアの例の比較であるが、当然のことながら、なぜソ連とユーゴスラヴィア(だけ)なのか、チェコスロヴァキアやポーランドなど、他の旧社会主義諸国の場合はどうだったのか、という疑問が浮かぶ。本書の著者が率先して内外の研究者を糾合して、このテーマでの国際的な比較研究プロジェクトを展開して欲しい。著者にはじゅうぶんにその実力があり、またこのテーマをめぐる内外の研究環境も「機が熟している」と言えるのではないか。

 以上、あえて何点かの「問題点」を指摘した。しかしこれらはすべて「書かれていないこと」についての「無いものねだり」であり、本書の学術的意義をいささかも損なうものではない。今後著者が、この分野での研究をさらに広げ深めていかれるように、切に祈念する。

 

日本スラヴ学研究会奨励賞選考委員会を代表して 長與進